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K向けのOSASKに関する各種ガイドライン
歴史
- なんでこんなページが必要になったのか
- 今まではこんなページがなくてもそれなりにうまくいっていました。しかし最近は質問の質、要望・提案の質が落ちているように思います。だからここに書いておきます。
- 以前は、どんな質問でもいいよ、どんな要望でもいいよ、と寛大(?)な対応をして、親しみやすい態度を取ってきました。初めのうちはこれでもとてもうまくいっていました。質問者はていねいで遠慮がちだったのです。でも今はずうずうしい人の割合が上昇して、もう寛大な対応を取らないほうがいいかもしれないと思うレベルになってきました。
質問と回答
- 質問するときは
- 質問する前に自分で調べましょう。知りたい事柄と OSASK をAND検索するとgoogleでも結構見つかります。
- あなたが質問をするということは、そして誰かが回答するということは、回答者の時間を消費させる行為です。それを肝に銘じて既出の質問はできるだけしないようにしましょう。その一方で、有益な質問は後の人のために役立ちます。ですから有益な質問は遠慮なくしましょう。
- 質問する前に3日くらいは調べたり考えたりしてほしいです。回答をもらったときに、それがどんなにそっけなくて否定的な内容だったとしても、ああわかってよかったと回答者に感謝できるような気持ちでないのなら、まだ質問しないほうがいいです。
- 本当にわからなくて知りたいことを聞くのはいいことですが、質問の形を取った要望や不満の表明や提案は不誠実な行為だと思います。また相手の回答によって揚げ足を取ろうとか、追い詰めようという態度もかなり悪いです。回答者はあなたと言葉遊びをして無駄な時間を過ごすつもりはありません。言いたいことを適切な形で分かりやすくまとめましょう。それができないのならできるまで発言を控えるべきです。
- 回答が得られたら、その恩を何かの形でいつか返そうという気持ちが必要だと思います。同じ質問をする人がいたら今度は自分が答えようと思うとか、何か別の形でもいいのでOSASKに貢献しようとか。
- 質問しても結局回答が得られないこともありえます。僕は今まではそういうことがないようにできるだけ気を配ってきましたが、これからは気を配りません。
- 回答するときは
- 既出の質問であるときは、○○に書いてあります、と示せれば最高です。それで質問者はどこを読めばよかったのかを知ることができ、次回の質問時にはそこも検索してからにするでしょう。既出なのに、出典を示すことなく内容を回答してしまうのは、取りあえずはいいですが、やや残念なことです。とりあえず誰かが内容について返答して、その後でまた別の誰かが出典を明らかにするということでも構いません。
- 思い込みでの回答はできるだけやめましょう。○○すればよいと偉そうに書いてあるのに、そのとおりにしてもうまくいかなかったりすると、すごく恥ずかしいです。
要望に関して
- 以下の典型的な要望・質問はほとんど意味がないかもしくは逆効果です。
- 開発を早くしてください、期待しています、がんばってください、予定はいつですか、最近何をしているのですか?
- これらの質問はたいていは僕にプレッシャーをかけるだけです。もっとのびのびとやらせてください。
- 早くしろなんていわれなくても早くしようと思っています、心痛を与えるだけです。
- 僕は誰にも期待されていない状態のほうが、むしろ「今に見ていろ」とがんばるタイプかもしれないくらいです。
- いわれなくてがんばっています。むしろがんばっていないように見えているのかと、落胆するだけです。
- 予定なんか知りません。どうせ守れない予定を聞いて意味ありますか?それとも何かに間に合わないと困るのでしょうか。それならいつですかではなくて、理由とセットにして○○までにできそうですか、と聞いてください。まあそれでもそのとおりにできるかどうかは分かりませんが。
- 僕が最近何をしているかなんてどうして聞くのですか。それは何もしていないように見えるからですか?本当は何かしているかもしれませんし、していないかもしれません。そもそも僕が何をするかなんてどうして他の人に見張られなくてはならないのでしょうか?僕はいつ何をしてもいいはずです。仮に今後一切の開発をやめてしまったとしても、それで文句を言える人は誰もいないはずです(やめるつもりは全くないけど)。
- 多分この手の発言を目にしなくなる、耳にしなくなるだけで、開発速度は2倍になります。
- もし本当に僕の開発を早くしてほしいと思っているのなら、こういう発言した人を見つけたら注意しておいてもらいたいくらいです。
- あなたがあなたの希望を言って、それで感謝される時代はもう終わりました。今はいかなる要望もうんざりさせるだけになっています。OSASKはこうすればもっとOSASKらしくなれると思います、みたいな提案のみ歓迎されます。こうしたら便利だとか、こうしたら自分の用途にも合うとか、そんなのは聞きたくないです。聞きあきました。
- ただこういう要望なら聞きます。OSASKのこの長所はすごくいいと思う、これは他ではなかなか手に入らない、だからこれにあとちょっとだけこれを足してくれたら、こんなすてきなこともできるようになりそうなんだ、ホラホラ考えてみてよ、すてきでしょう?・・・と熱く語ってくれてそれで僕が引き込まれれば、それはあなたの勝ちです。多分ほっといても僕はのめりこみます。
- OSASKの基本理念を無視した要望は最低です。僕はたぶん無視します。
- そんなOSに需要はないとか、こうすればもっと需要が伸びるとか、時代遅れだとか、その手の要望も全部いりません。どうぞOSASKのことは忘れて他のOSをお楽しみください。僕は僕の観点で見てよいOSにすることには熱心ですが、一般ウケを狙うようなことには興味がありません。
- 要望が受け入れられなければ、自分で作りましょう。「はりぼてOS」から出発すれば、いつかはできるはずです。自分で作る気もないくせに安易に要望するなんて、その程度の情熱ではそもそも僕が興味を持つはずないです。要望するだけやぼです。あきらめましょう。
要望(2)
- あなたの要望が僕の心に響かずに、相手にされないことがあっても、あきらめるには早すぎるかもしれません。実験してやってみせればいいのです。口先だけで言うのとは比べ物にならない説得力がありますし、そもそもそこまでして説得しようという態度は僕の心に響きます。というかまあ、要望が拒否された後にそれすらできない場合は、「なんだ結局その程度の要望だったのか」と僕に思われて終わりかもしれません。
- よく分からないと思うので、もう少し具体的に言いましょう。OSASKに新しい機能をつけてほしかったとして、僕が断ったら、あなたはその機能の一部を実際につけてしまえばいいのです、OSASKを改造して。そしてそれを僕に見せればいいのです。ほら、こんなわずかな変更でこんなに便利になった。だから残りの機能もつけようよ、と。OSASKの改造が困難なら、「はりぼてOS」の改造でもいいのです。とにかく僕のような想像力の乏しい頑固なわからずやには実際に見せないとダメなのです。まあやってもダメなこともありますので、そのときはごめんなさい。
- もう一つのケースとして、2006.05.02現在で話題になっているOsaskWikiのページ書き換え権の解放問題を考えてみます(他の件も問題にされていますが、とりあえずここではこれだけで)。この文章をここに書いている段階では、ルールを改正したら気分がよくなる(重苦しくなくなる)という僕にとっては評価しにくいご利益と、ページの内容は今よりも改善されるだろうという絵に描いたもちが示されています。僕としてはこの段階では自分の理念(一つのページを複数の人がいじると読みにくくなることのほうが多い)を曲げる気にはなれませんでした。
- そうであれば、提案者が自分の主張をことさらに説明するのは、単に理念を無視した要望の出し方でしかなく、それ以上やっても無視されるだけなのです(上記参照)。管理しその責任を負うものとただの提案者が同列であるというのは結局は幻想です(もちろん可能な範囲ではこの幻想を守りたいと僕は思いますが)。提案者は責任者を説得しなければ提案を受け入れてもらえませんが、責任者には提案者を説得しなくても提案を棄却できるのです。その代わり結果に対する責任を負うのです。提案者には原則として責任はありません(本人が言い出さない限りは)。
- だからやって見せるのがいいと思います。このページはみんなで編集することによってもっと改善されると思われるページがあるのなら、そのページをコピーした別のページをつくり、そこにはみんなで編集可ということを明記して、それでそのページがみんなでメンテナンスされてよくなっていく過程を責任者に見せるしかないのです。
- この場合はスムーズに実証試験をすることができますが、内容によっては実証試験が現行ルール下では困難かもしれません。そういう時は、責任者に実証試験ができるようにする環境を要求しましょう。僕が責任者だったらそういう意欲的な提案には、できるだけ譲歩しようとすると思います。
客観的・主観的
- ○○するべきだとか、○○なのは間違っているとか、そういう言い方はできるだけ客観的な事実について使いましょう。独りよがりの意見とも思える状況で、それがさも一般的な事実のように語ってしまうと、僕はかなり割り引いて読みます。
- これをむしろ逆に、「私は○○がいいと思うのだ、でもうまく説明できないからたぶんまだこの良さは分からないかもしれない、でも信じてくれ」とか、「私が全責任を取るからやってくれ、お願いだ」というのには、強く心を動かされます。そこまで言うからには、うまく説明できないだけで、並々ならない確信があるんだろうと思うわけです。それならそれに賭けてみてもいいかなと、まずは前向きに検討するでしょう。もちろん、心にもないことをうわべだけで言っているのはダメですよ。そんなのはすぐに分かります。
- 理論的な物言いのほうが魅力的だと思う人もいるかもしれませんが、僕にとってはただの責任逃れです。つまりもしその人のいう通りでなかった場合、それは理論を信じた僕の責任なのであって、提案者は「私のせいじゃないもん」と言いそうな雰囲気が感じられてしまうのです。
- 十分に客観的な説明ができているのに、それにもかかわらず主観的な形式で力説されたりしたら、僕への説得力は最高になるでしょう。
- これだけだと抽象的過ぎて分からないかもしれません。学校の制服に関する理不尽な細かい校則を生徒が廃止してほしいと思っている場合を想定してください。・・・「表現の自由だの、個人の人格の一部だの、かくかくしかじかの根拠により、この校則は間違っているので撤廃すべきなのだ」と先生に向かって言うのと、「先生お願いです。この校則をなくしてください。この校則がなくても私たちは10年前の先輩のようなめちゃくちゃな制服を着たりはしません。節度ある範囲に収めることを約束します。だからどうかチャンスをください」と言うのとどちらが説得力があるかと思うかです。
用語・誤解・矛盾
- ライセンスやルールなどのあなたの権利を保障するための文章は以下の説明から除外です。
- OSASKの説明などで適切な用語が使われていないせいで分かりにくいものがあるでしょう。それについて、これは○○と同じですかという質問や確認があるかもしれませんが、それはあなたが○○をどう認識しているかによるような場合が多く、たいていは不毛な質問になってしまいます。あなたにとって同じように思えるのなら同じかもしれません。
- とにかく重要なのは用語ではないのです。内容なのです。内容を理解するために他の専門用語との比較で考えるのも悪くはないですが、それよりはもっと素直に内容で分からない部分を聞きましょう(分からない部分があるのなら)。
- OSASKを紹介してくれているページの中にたまに間違いを見つけることがあります。引用ミスもあります。以前はそういうものについては間違いを直してもらえるようにお願いをしてきましたが、多分これからはほとんどしません。それを読んで間違った理解をして、それを根拠に批判する人が出てくるのも時間の問題だと思います(兆候はあります)。とりあえずそういうことがありうるので、批判したいなら批判する前に元の発言を探して確認しましょう。これでただの空振りを減らすことができます。
- 僕は自分の考えを一生懸命に説明しようとしていますが、間違えて書いてしまったり、うまく説明できずに誤解を与えてしまうような記述にとどまっているかもしれません。そのときに優先されるのはもちろん僕のもとの考えであって、記述された内容ではありません。
- 考察が進んで途中で考えが変わることもありえます(そんなに頻繁にはないと思いますが)。その場合は申し訳ありませんが、後のほうの見解が優先です。
理念
- OSがなすべきこととアプリがなすべきことを分離します。仮想化を重視して、そのせいでアプリを作る上で不便が生じても問題視しません。だからたとえばOSASKアプリはCPUID命令を実行するべきではありません。これはCPUID命令が特権命令かどうかというレベルの問題ではなく、そもそもアプリがCPUの情報を直接得なければいけない状況のほうが問題だという意味です。CPUによって動作を変えるのではなく、ユーザからの設定によって動作を変えるべきです。画面解像度についても同様なので必ず全画面になることを保証できません。
- これだとベンチマークソフトとかが作りにくくなるとはいえますが、OSASKの理念としてはそんなまともで正確なベンチマーク機能の提供はアプリの仕事ではなくOSの仕事なので、システムアプリケーションというシェルの拡張機能によって実現されるべき機能なのです。
- できるだけ負荷を減らします。これは今までは486や386などのレガシーマシン向けのためと説明されており後ろ向きだと評されてきましたが、もうこの批判はあたりません。というのは、目下の構想ではもはやx86はメインターゲットではないので、組み込みCPUをも視野に入れた場合、負荷は軽ければ軽いほど利用の幅が広がるからです。組み込み用CPUを視野に入れるようになったのは、低スペックなCPUであれば僕でも十分に入手可能だと理解できたからです(今まではPCやMac以外のCPUは性能の割に高価なものしかないと思い込んで、そんな入手が難しいCPUのためにOSなんか作っても自分では使えないと思っていたのです)。
- 僕にとって最近のAT互換機の処理能力の必要性は理解しがたいものがあり、たとえば3GHzのCPUだとかものすごい処理能力のGPUだとかがあっても、それらの能力を使い切ってやらせたいと思うことが一つもありません。それよりは、ARM7でOSASKがどうにかこうにか動くとか、8086のリアルモードのままでもOSASKが動くとか、そういうことのほうがずっと楽しいです。これで僕のやりたい普段の処理が安価な機器で、そしてはるかに小さい電力できる可能性がでてきます。1Wでできるような処理のために100WのPCを使うなんて僕には馬鹿らしいです。
OsaskWikiと自分のホームページ
- みなさんそれぞれ自分のホームページやブログをもっていると思いますが、OSASKに関することはできるだけOsaskWikiの個人ページにも反映させることをお勧めします。なぜならOsaskWikiなら更新したページがすぐに分かり、巡回しなくても更新に気づけるからです。自分のサイトにコンテンツを置いて、OsaskWikiに更新履歴のコピーを置くというのがいいかもしれません。
- 僕がK-KiwiよりもOsaskWikiのKページをよく使うのはそのためです。
性善説的ルール
- (どちらかというとこの項はおまけ)
- なぜ自由に使えるシンプルなツールを使うくせに、細かいルールがあるの?(OsaskWikiやOSASK-IRCやOSASK-MLなど)。そんなにルールが重要なら、そもそも違反行為ができないようなシステムに移行すればいいんじゃないの?それにせっかくの自由度が高いシステムがもったいないよ。・・・などという不満を持つ人がたまにはいるでしょう。
- まずシンプルなツールを使う理由ですが、それはシステムが単純だからこそ動作が軽く、手間も少なく(ログインなどが不要)、運用ルールが少々変わってもシステムを変更しないで済むという利点があります。
- これだけだと分かりにくいかもしれません。じゃあ逆に安全装置が満載だったらどうなるかを考えましょう。手が滑っても指を切らずに済む素晴らしい包丁があったとします。そんな包丁がどうやったら作れるのかは分かりませんが、おそらく大量のセンサーを搭載し、電力を必要として、指は切らないかもしれないけど、たまにソーセージも誤認して満足に切れないような、またもしかしたら人々の肌の色で設定を変えないといけないような、多分そんなとんでもない代物でしょう。重たくて高価で故障しやすくて、そんなわけで恐ろしく使いにくいものです。
- こんな包丁であってももし使う人がこれでないと毎日のように指を切ってしまうとか、もしくは包丁を他人を傷つけるための道具として使うことが絶えないのなら、導入もやむなしだと思います。しかし僕には、これは使う人が愚かゆえに支払わされている代償に思えるのです。もしみんなが僕の期待する程度の知性とWiki・IRC・ML管理者に対する常識程度の敬意を持っていれば、そんな過保護で使いにくくて重たいシステムを全員に強要することなく、みんな快適に使えるはずなのです。
- 包丁の例はあまりに僕たちになじみがないので、別の例を出します。たとえばソフトウェアのコピー問題はどうでしょうか。もし僕たちがみんな著作権を尊重し勝手に違反する人がいなかったとしたら、ソフトウェアを開発する側はコピープロテクトなんて開発しようとすらしなかったでしょう。その分開発コストは削減されていたでしょう。ところが今はどうでしょうか。合法的な私的コピー権までメーカに侵害されたままです。
- CDの音質を全く劣化させずにデジタルデータとして他の機器に保存することや、DVDのデータを劣化させずに保存すること、そしてさらにはデジタルハイビジョンの録画を劣化のないまま次世代DVDに保存することそのものは、本来は消費者の当然の権利でした。もちろん他の人にあげたりはしてはいけません。しかし自分がバックアップ目的や保存の目的でそのようなことをするのは正当な権利なのです。
- しかし今はややこしい暗号化技術を組み合わせた商品ばかりで(特にデジタルハイビジョン)、コピー回数は制限されています。このせいで善良な人も不便な生活を強いられる上に、高価な機器を買わされるという大変不幸なことになっています。みなさんちょっと想像してみてください。もしこれらにややこしいプロテクトがなければ、どれだけ便利に使えるでしょうか。
- 僕たちは愚か者として扱われているのです。その結果どうなりましたか。ついには愚か者であることに順応し、愚か者であってもミスしないで済むシステムを、ミスしない代わりに重くて不便なシステムを導入してくれとまでいう人が出てきたわけです。僕に言わせればこれは明らかな退行であって、受け入れがたいものです。人間の尊厳を踏みにじっているとさえ思います。
- そんなわけで僕としては、そんな要求を突きつけられるくらいなら、そんな人にはこのコミュニティから去っていただくほうを選びたいと思います。
- もちろん物事は程度問題です。僕はすべての安全装置に異議を唱えているわけではありません。不注意の一回のミスが取り返しのつかない結果を招くような状況のためになら安全装置をつけるのは賛成なのです。
- 僕が中心になって作ったルールはたいていやや厳しさを感じさせるものが多いでしょう。しかしこのルールのせいでどうやっても○○ができない、ということはほとんどありません。たとえばMLには添付ファイルの付加が禁止されていますが、どこかにアップロードしてそのダウンロードURLをメール本文に記載すれば十分に代用できます。Wikiでは勝手な編集を禁じていますが、ページの内容のコピーを禁じてはいないので、自分でコピーしたページを作った上でそれを編集することはできます。IRCでは#osaskではOSASKに関係のない話題の節度ある自粛を求められますが、それは#miscへ行けばできることです。つまりやりたいことをできなくするタイプのルールではないのです。
- これらのルールはもちろん理由があって制定されたものです。・・・MLの容量の肥大化を避けるため、著作者の意図を尊重し意思の統一されないWikiページが生まれないようにするため・荒らし行為の非難の論拠を与えるため、OSASKに関係しない話題を快く思わない人に配慮するため。
- これらのルールはどれも誰かが迷惑をこうむらないようにするためであって、正当な権利を守るためのものです。管理者が楽をしたいからとか、誰かをいじめるためとか、そんなものではありません。十分に紳士的なものです。多少の堅苦しさはあるかもしれませんが、それはルールである以上は仕方ないと思っています。
- 最後にこれは当初の意図ではなかったのですが、後に非常に役立つ一面があったという話です。
- 当然ルールを用意すると、このルールを守らない人というのが出てきます。それはルールを読んでいなかったから守らなかったり、読んだけどうまく操作できなかったり、読んだけどきちんと理解していなかったり、もしくは読んだけど逆らったりしたりです。またこれを指摘したときにどういう応対を取るかも人によって様々です。・・・これを観察することで、その人の考え方や性格が結構わかるのです。
- 相手のことがほとんどわからないインターネットの世界では、この情報はかなり重宝します。この人はそそっかしい人らしい。この人はルールを尊重しない人らしい。この人は多くの人にとって便利であれば小数の人の権利を侵害してもいいと思っているらしい。この人は悪意のない不注意によるミスは謝る必要がないと考えているようだ。読んでないから間違えたといえば、それで詫びたことになると思っているようだ。などです。
- もちろん逆もたまにあります。(指摘への対応を見て)なんてていねいな人だろう。なんて礼儀正しい人だろう。などです。・・・またその対応の変化から、各個人の成長がうかがえることだってあります。
- 僕はこれらの情報を駆使して、コミュニティを運営してきました。もし僕が別のコミュニティ管理するとしても、やっぱり同じようなシステムにするでしょう(シンプルなシステム+運用ルール)。これがないとメンバーの性格をつかむのに時間がかかりすぎます。
- この点から言えば、僕が他のML、wiki、IRCよりも厳しいルールをあえて用意しているのは、みなさんを「テスト」するためだったともいえます。
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初版日時: 2006-04-30 (日) 07:49:37
最終更新: 2009-12-01 (火) 00:00:00 (JST) (350d) by k-tan
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